犬々の日々

犬を犬と思うな!

2024年6月

6月のほとんど。

 

よく働いた。

よく働いていると、本を読むハードルが低くなる。つまり趣味の本を買ってから読書に着手するまでの時間が早くなる。これは話題のあの本へのカウンターではない(読んでいないのでそんなことはできない)。私の仕事はほとんどが文字を読む行為で、加えて文字の大半が専門外でさっぱり意味がわからない。だから慣れ親しんだ内容の文章に飢え、本が読みやすくなるというごく自然の話だ。*1

 

何かが上手くいっているとき他のものも上手くいきやすく、反対に何かが崩れ始めるとガタガタと他のことにまでひびを作り始める。今月はひびの予兆を遠くに感じ、老ブリューゲルの空の色のような予感だった*2。「あの夕日まで走ろう」みたいな胡散臭いお決まりがあるが、意外と夕日は沈むまでが早い。

仕事や人間関係や趣味や、あらゆる全ての物事を維持・発展させたいという欲が強いせいで、「上手くやる」という脳がない。今のところ保っていると思うが、これがいつまで続くかなと腕組みをしている自分もいる。もし今の生活を数年続けられたら超人である。この人を見よである。山から降りてきて啓蒙文学を書くべきである。

 

1ヶ月を丸々書いてしまおうという試みはとにかく時間を要する。

短い項目から書こう。

 

 

 

 

映画

1本も見ていない!これでこそ。

 

 

ライブ類

特に予定がなかった。8月は行く。

 

 

スペース

相変わらずのスペース好きで暇さえあれば開いている。スペースの回数は孤独感に比例する。10人くらいしかいないアカウントでやっているので大体誰もいない。入って来てくれれば嬉しいし入って来てくれなくても穴埋めには有用。

 

 

音楽

 

Original Love「朝日のあたる道」。

 

Billy Joel「Glass Houses」sometimes a fantasyなど。

 

左とん平「とん平のヘイ・ユウ・ブルース」。かっこいい。彼氏、みうらじゅん、高校の先生の3人が好きな曲。

 

クイーン、ウェンブリーライブ1986年、リッキー・ネルソンのカバー「Hello, Mary Lou」。フレディは声が紳士。

 

クイーン、ブダペストのライブ1986年、ハンガリー民謡「Tavaszi szél vizet áraszt」(春の風が水を溢れさせるという意味のようだ)。手のひらに書いたハンガリー語歌詞を歌うフレディに、特に政治的な色々を思ってグッとくるものがある。クイーンのライブ映像では、この86年のブダペストがかなり上位に入る好きさだと再確認。

 

井上陽水「二色の独楽」。

 

ちあきなおみ夜へ急ぐ人」。ミーハーなのでサブスクが解禁されて喜んで聞いた。

 

ザ・タイガース「世界はボクらを待っている」。会社の近くのレコード屋さんで安かったので。アルバムジャケットの細かい絵が可愛い。すぎやまこういちも関わっており、オーケストラの壮大さが良い。同名映画のサントラ。映画のほうは見ていないけど多分B級の笑えるタイプの映画な気がする。

 

毛皮のマリーズ「BABYDOLL」。ライブで楽しそうに歌ってる映像が好き。何回も聞いているのにほとんど歌詞が聞き取れない。

 

野坂昭如「ソ・ソ・ソクラテス」。よく歌った。昔から思い悩む日には口からこの歌がよく出る。今月は思い悩む日が多かったのだろう。ソ・ソ・ソクラテスプラトンか、ギョ・ギョ・ギョエテ*3かシルレルか、みんな悩んで大きくなった♪と野坂昭如に言ってもらえると束の間助かる。

同じく野坂昭如のアルバム「鬱と躁」を来月には買っているかもしれない。女子大でのライブを収録したもので、冒頭の喋りだけでも味がある。

 

 

 

松苗あけみ『純情クレイジーフルーツ』の4・5巻。やっと読み終わった。松苗あけみは本当に絵が美しく一枚絵で見たいタイプの絵だ。

 

表象文化論学会『表象 18』特集 皮膚感覚と情動。美学の論文が集まっていて嬉しい。難しいので全く読み進まない。これはいずれ読書会を開催したいと思っている。論文1本ずつで1か月に1、2回開催とかなら社会人の友達たちも大変ではないはず、問題はやってくれそうな友達がそんなにいないこと。

ドミニク・マカイヴァー・ロペス「芸術メディウムと感覚モダリティ:触図」だけかろうじて読んだような読んでいないような。画像は視覚的なもので、また視覚は五感のそのほかから明確に区別されるものだという通説に意義を唱えているもの。盲目の人が触覚を使って画像を作ることができるという出発点などは面白いと思ったが、これ以上書こうとすると何か重大な誤読を公にしてしまうかもしれない。

 

エピクテトス『語録 要録』文字通り語録3巻と要録を収録してる中公クラシックス。鹿野治助先生訳。

力強いエピクテトスの言葉の数々に一定の方針や元気を与えてもらいつつも、さっぱりこの生き方はできる気がしないというのが正直なところ。

自分の権内でないものについて欲を抱かないという一貫した教えは、そういうことができれば幸福が近いと思うし、よくわかる。しかし、あれもやりたいこれもやりたいと全てを手に入れたくて四六時中自己矛盾している私にとっては実現可能性が低い。悩む日に部分的に取り入れるくらいが良いだろう。若い人などが死ぬ場合に「未来があったのに」とか「若すぎた」といった言い回しがあるが、(私の理解の範疇では)エピクテトスとしてはこの言い回しは不適切だろう。未来はその人の所有物では(まだ)なく、まだないものに対して失うということは整合しない。冷淡とか放棄とは全く違い、そのままの大きさで事実を見るというやり方は、対処できない大きさの悲痛を前にしたときにこそ思い出したい。

 

面白かったところをいくつか。

「もし君が君自身の妻子とキスするならば、人間とキスしているんだと思うがいい、そうすれば、死んだとき、混乱させられないだろうから。」

「自分自身不幸なばあいに、他の人たちを非難するのは、無教養な者のすることで、自分自身を非難するのは、教養の初心者のすること、そして他人をも自分をも非難しないのは、教養のできた者のすることだ。」

「一般にそれぞれのものが、もっともよく自分の本性にかなっているそのときこそ、美しいのだと公言しても変ではないだろう。(略)それではなにが、犬を美しくするのか。犬の徳(犬が持つ優れた性質。徳:そのものの卓越性を示す言葉。)がそこにあるということがです。」

 

 

犬々の日々

 

6/1(土) デート。私のような気難しい人間が楽しそうにしているのは本当に彼氏の力量。

 

6/2(日) 母と買い物の予定が雨で中止になる。予定や仕事がない日は不安になって過ごす。

 

6/3(月) 帰りの時間に豪雨になって、駅は雨宿りする人々で混んでいた。私も少し待ってみたけど、寒くて仕方ないので強行突破で帰った。一瞬、目の前を白と赤の中間くらいの色の閃光が走ったあと、数百メートル先の高い木に雷が落ちて、死ぬかと思った。*4

 

6/5(水) 会社の人々とティーハウスタカノ。

 

6/6(木) 彼氏と上野で夜ごはん。

 

6/8(土) 大学の友達と参宮橋。またポニーを見に行った。友達の名前には「翡翠」という意味の漢字が使われていて、呼ぶ度に綺麗だと思う。

 

6/9(日) 午前中は片付けと衣替え。衣替えは本当に嫌い。外注したいくらい嫌い。しかも1年ぶりに出したワンピースのポケットから元彼と行った場所のチケットが出てきて元気がなくなる。昼すぎから高校の友達。誰でもそうだと思うが高校の友達はマナー感とかが近くて楽。友達の話に登場する男の人は煮え切らない人で、聞くだけでイライラしてくる。

 

6/10(月) 支社の先輩から退職の連絡が来た。入社当初から1番に味方でいてくれた人なので寂しくもあり、ただこの小さい会社におさまるような人ではないからほっとする気持ちも。

夜は高校の友達。会う度にお互い話の登場人物が変わって楽しい。遅い時間に解散したのに友達は「用事がある」と言って夜の小伝馬町に消えていった。

 

6/12(水) 部署の先輩の異動が発表され、つまりそれは1人部署になることを意味する。業務量については楽観視しているが、先々月異動してきたばかりで、先輩に教えてもらいたいことがまだまだたくさんあったので寂しい。

三省堂に取り寄せの電話をした。本のタイトルの「表象」を「ひょうぞう」と読んでいて、この字を「ぞう」だと意識するのは久しぶりだと思った。

 

6/15(土) ピアノ。発表会の曲決めをする。弾きたい曲が色々あって迷走。先生が「これとかどう?」と言って試し弾きしてくれる1フレーズがいちいち上手くて、それも弾きたいあれ弾きたいとなっていた。

 

6/16(日) 大泉学園の牧野記念庭園に行った。牧野富太郎のひ孫の人が丁寧に解説してくれた。話すのがとにかく上手い人だった。パンをたくさん買って楽しい日曜日。

庭にオナガが営巣していると父から連絡があった。

 

6/17(月) 着々と先輩の異動準備が始まっていて、寂しい。2人で大量の作業に追われているうちにすぐ異動の日になってしまうだろう。

 

6/18(火) 古瀬戸珈琲でお昼を食べている横からバックパッカーの話が聞こえてきた。「私はバックパッカーだったことがあって、私の夫もバックパッカーだった。夫の前妻もバックパッカーだった。」詩のような台詞だった。

 

6/22(土) 仕事を言い訳にピアノの練習がさっぱりなことが先生にはもちろんバレていて、恥ずかしい。発表会に向けて新しい曲が始まった。

午後は母の音楽の先生のコンサート。会場が蕨で遠かった。

 

6/23(日) 家主の死去で空き家になっていた近所の土地が数年を経て売れ、家が盛大に壊され始めた。和室が多い家だったので、屋根がなくなった今、畳にどんどん雨が降り注いだようだ。昼は彼氏と会って夜に帰った。帰るときにはもう雨が止んでいて、この家の前を通ると、濡れた畳の匂いが強く立ち込めてきた。加虐性が満たされると感じる。

 

6/24(月) 会社に指定された通りの場所へ行ったら警備員に止められた。会合は明日ですとのこと。私も上司も全員日時を勘違いしていた。

井上陽水公式ツイッターが半年ぶりに動いて嬉しかった。数少ない陽水好きの友達に連絡。

 

6/27(木) 会社の人々と3人で夜ごはん。仕事に意欲がある人と話すと元気が出る。

 

6/28(金) 中禅寺湖に行った。意地でも旅先の地名をこのブログに書かないというマイルールがこれで崩れた。雨の平日でほとんど人がおらず、生き物といえば猿・熊・私くらいなものだった。静かな湖畔が見られたのでむしろ雨で良かった。ずっと行きたかったイタリア大使館別荘などを見た。

 

6/29(土) 旅行が楽しいのと東京に帰りたい思いは両立する。東京に帰りたくて帰りたくて、帰りのリバティけごんはワクワクして仕方なかった。

 

6/30(日) 下北沢で眼鏡を作ったりして休日らしい日。とても楽しかった一方で気分の乱高下がしんどい。最後に入ったお店でスピッツのオバケのロックバンドが流れていてかろうじて元気が出た。悲しみを拾ってくれる爽やかさをしている。

犬も今日は調子が悪いらしく、不安げに暗い隙間に隠れたりあてもなく家を歩き回ったりしている。不安は体力を使うので小さい犬にはさぞ辛いだろうと思う。お尻から頭までをすっぽりと胸に抱えて寝ると少しは安心できると言う。

 

 

その他

 

仕事で「他ならぬわたくし」がいて会社にとって良かったですね、と思うことはもちろん少ないが(そもそもその満たされがナンセンスだが)、今月は一度だけあった。

女性の著者が原稿の中でさだまさしの関白宣言を粗く引用してきて、しかし編集部の人々は音楽から遠いので、著者の一人称が突然「俺」になったと思って驚いていた。なので、“これは関白宣言という歌を念頭に置いているんだと思います、あとせっかくなら「厳しい話もするが」を「かなりきびしい話もするが」にしたほうが引用が伝わりやすいかもしれません”くらいのことは発言できた。

 

若干のカモフラージュのため事実通りではないがそんなようなことがあった。

他ならぬわたくしである。こういうときに「寂しくて最悪だ」と放棄する歪んだ思考癖を矯正することこそが幸福な(感知しない)会社員人生への第一歩であろう。

*1:エピクテトス 、語録、第4巻「平静に生活しようと、一所懸命になっている人たちにたいして」曰く、「私は都合が悪い、私はなにもすることがない、いや、私は死体のように書物に縛られている」というのと、「私は都合が悪い、私は読書するひまがない」というのと、なんのちがいがあるか。というのは、挨拶や公職が外的な、意志を越えたものに属しているように、書物もそのとおりだからだ。それともなんのためにきみは読書しようとするのか。どうかいってくれたまえ。というのは、もしきみがそれを娯楽のためか、なにかを知るためにするのであるならば、きみはつまらない憐れむべきものだからだ。だが、読書をそうあるべき目的のためにしているのであるならば、それは心の平和以外のなんであろうか。だが、もし読書がきみに心の平和を持ち来たらさないならば、それはなんの役に立つだろうか。

*2:「雪中の狩人」

*3:ゲーテの表記に落ち着いたのは一体いつだろう。「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」

*4:死ぬかと思ったのと同時に、私とルターは誕生日が同じだったことを思い出した。ルターも法学校の生徒だったころ雷に遭遇し、今助けてくれたら修道士になりますと神に祈ったら助かったのでアウグスティヌス会の修道院に入った。怖かったので気持ちがよくわかった。