今月の月記。
今年は骨折とかするかもな、とぼんやりとした予感で目覚めた新年。
やることがなくて、柄にもなく目標とか立ててみたりした。目標って理解できない行為だ。目標などというのを流行らせた黒幕は寿命か?
それはさておき、スマホも極力見ず、友達とも極力会わず、禁欲の幕開けだった。スマホにこれ以上触れてると精神分裂の進行が確実だったから一旦控えることにした*1。ずっと心身症に悩まされていて、身体の中に精神を引き戻す作業を頑張ってはみている。まだ怪しいところもあるけど、去年の秋に比べたらだいぶましになってきた。
そもそもこういう甘えた口調で日常を公開するのは難儀だ*2。でもさっき立てた目標の1つに日記を公開する、というのがあるので仕方ない。1度、しいたけ占い風に下書きを書いてみたものの不可能だった。あれは常人には真似できない*3。多めに固有名詞を入れると花束みたいな~*4っぽくてより凄みがあるからやってみようと思う。
ところが毎日似た流れで暮らしていたので日記もなにもない。昼ごろに起き出して一通り娯楽に手を出したあと、夜になったら家族と少し話して、また自室で娯楽、眠くなったら寝た。何もしない時間は少なかった*5。
今月の記録は娯楽が大半を占める。同じ娯楽*6を共有している人がいたら感想を言い合いたくて仕方ない。なので娯楽の中身を書く。
娯楽の中身→映像類、音楽、外出、ポッドキャスト、文字類、その他。
1. 映像
まず映像類。感想なんてものを書き始めるとたちまち言葉が分節を始めて感情がミンチにされる。それはもうメタメタ*7のズタズタ。本来はFilmarksだって「わあ」とか「おお」などの感嘆だけで溢れかえるべきだ。
でも仕方ない。他人と見たものを共有し、あわよくば感想を交換したいという下心を私は抑えきれない!
すぐに感想を検索してしまう。そして読み込んでしまう。本当は私が10代の頃に感動した青春映画*8が友達を中心に大流行していてほしいが、実際していないから仕方ない。孤独。以下、約20作品が続く。
・ラブ・アクチュアリー*9。3回目くらい。元旦に見た。元旦に見ても普通に良い映画で、ラブ・アクチュアリーってすごいなと思った。紅白で森進一が襟裳岬を歌う*10のと同じくらい安心感がある。幼い頃はカールが好きだったけど、今は「あーかっこいいなー」くらいの距離感を保てている。
・フラッシュダンス*11。初めて見た。主人公がストイックな努力をする努力奨励映画かと思ってたらそこまで努力人というわけではなくて助かった。むしろ、明るい若い女の子がちゃんと迷ったり恋愛したりしながら努力のスタートラインに立つまでの映画で、そこがとても良かった。時々目を見張る美しいカットがあってそれも素晴らしかった。
・侵入者たちの晩餐*12。これはリアルタイムでテレビで見た。面白かった。バカリズムってなんで分裂症にならないんだろ。
・ナインハーフ*13。冬は見ると決めている。今回もちゃんと悲しい。しっかりサントラにはまって、しばらくの間Lubaの力強いブルースを聴いたりしてた。ブライアン・フェリーのSlave to loveに乗せて猛烈楽しげな2人がニューヨークの街を走ったり踊ったりする円満デートのシーンが好き。もちろん裸体を蜂蜜まみれにするシーンも、四足で這わせてお金を拾わせるシーンも女優の美しさが際立ってとても好き。
・危険な情事*14。ナインハーフと同じエイドリアン・ライン監督。めちゃ怖だった。なんで1人で見ちゃったんだ。監督は水に正欲*15なのか? 毎回ヒロインが水を頭から被ってる。ショー的、人工的、視覚的で傲慢な水。水が全く人間の従者であるかのような。犬好きの人へ、途中でうさぎが酷い目に合って叫んだけど犬は最後まで無事だったよ。めちゃ怖だったからもう一度見るかは怪しいけど時折思い出すことになる映画だと思う。ショパンのプレリュードが耳に残る。
・危険な情事が本当に怖かったので次は楽しいやつが良いと思って、ナインハーフのパロディも出てくるホットショット*16を見ようと思った。でも家にあったホットショットのDVDケースはなぜか空で、見つからない。仕方ないので同じ脚本家の裸の銃を持つ男*17を見た。明るくて楽しい映画だった。パロディを全部拾えてる自信はない。でも面白かった。ホットショット見てみたい。ほんとどこに失くしちゃったんだろう。
・寝ても覚めても*18。洋画が続いたから邦画を見たかった。前はいつ見たかとかどんな話かとか全然覚えてなかったけど、大好きな映画だったというのと怖かったという2つの感情だけ鮮明に覚えてて、大好きの記憶のほうを頼みの綱に、また見た。どっちも合ってた。大好きで怖い。なんで1人で、しかも寝る前に見ちゃったんだろう。そういえば1回目見たときも怖すぎて記憶を全部消したんだった。そのときから今日までに起きた実体験がより重なって、より濃厚に動悸が止まらない。そういえば今気がついたけどこっちが麦(ばく)で花束は麦(むぎ)だ。次犬を飼ったら小麦ちゃんと名付けようと思ってたけど絶対にやめた。今適当にばくとむぎをを並べたから誰かが怒ったと思う。格も質も違いすぎる。この映画は体力を使うから次見るのがいつになるかわからないけど、いつか必ずまた見るだろうなという予感。唐田えりかについては2月に公開される極悪女王が楽しみ。
・セックスエデュケーションのシーズン4*19。就活のときに見始めたやつがいつの間にかシーズン4まで進んでいて時の流れを感じる。長々と続いてるのにそこまで失速してないのもすごいし毎回選曲が好き。内容にはたまに鼻白む。葬儀でU2のwith or without youを演奏するシーンで泣いた。最終話でアレサフランクリンのLet it beがかかるのも泣いた。やっぱりイギリスのドラマだから音楽いいなとか思ってしまう。音楽監督は誰?同じ人が選曲担当してる映像が見たい。その人の追っかけになりたい。少なくともイギリスのドラマの中では、音楽はまだ死んでなくて、まだ力を持っているのが嬉しい。平和な世界が来るかもと思わせる力がある。U2で泣いたの悔しいんだけど!
・蘇る金狼*20。このあたりで硬派なのを見ようと思い立った。ドキドキワクワクハラハラでこれぞ角川映画。大衆を楽しませてやるという角川の気概を感じる。激渋ハードボイルド。冒頭からかっこいい。何もかもがかっこいい映画だった。銃!麻薬!悪銭!女!みたいな作品は大好き。中高のとき、母が仕事に行くついでに学校まで車で送ってくれることがしばしばあって、青山通りを抜けるたびにハンドルから両手を離してアクセル全開で「蘇る金狼ごっこ!」と楽しそうだったのを思い出した*21。当時は映画を見てないからよくわからなかった。角川全盛期世代の母とのほっこりエピソードだ。カウンタックってまだファンは多いんだろうか?
・ギャングのボスになる方法*22。ドキュメンタリーシリーズ。前作のカルト教祖になる方法が面白かったから。カルト教祖然り、ギャングのボス然り、強烈な自己愛とカリスマ性が必要なことがよくわかった。まず性質が先にあって、環境が何を選択させるか決めているように思う。つまりある環境ではカルト教祖になる素質があった人物が大戦下のイタリアにいたから手段として暴君を選択した、といったような。銃を選択しさえしなければあるいはこの人たちはウォーレンバフェットだったかもな、とか。何を好きかも偉大な能力の1つだと強く思う。同じシリーズで暴君になる方法もあるけど見るか迷う。政治にはよく傷つけられる。カルト教祖とギャングのボスはどちらが人口が多いんだろう?
・エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス*23。面白かった。長いけど、メッセージ性もなく、筋もなく、安心して我を忘れて見ていられる。超アメリカ。アクションとハッピーエンド。映画ってこうじゃなくちゃね!
・マリー・ミー*24。オーウェン・ウィルソンだ!と思って見始めた。終始ハッピーな良い映画。マイ・インターンとか好きな人は好きそう。良い人しか出てこない映画はほっとする。キーツのくだりはローマの休日を思い出した。
・白い馬*25。アルベール・ラモリス監督。最近馬が見たくて仕方がない。犬と違って馬は家にいないから馬を見るためには外に出ないといけない。即席に願望を満たすために「馬 映画」で検索してこの映画を知った。超・名作。まず映像がとにかく綺麗。馬は本当に綺麗な生き物だ。舞台はカマルグで、フランス人はカマルグに一種の憧憬を覚えているのかもしれない。「フレンズ~ポールとミシェル」でもカマルグに野生の馬が走る映像が使われていた。40分ほどの短編で飽きない。筋がないかと思いきや衝撃のラスト。「えっ」と絶句して私の部屋の空気が止まった。牧歌的な映画だったのに一変、いや正確には一変も何も、怖さを感じるのは私が文明人だから。「白い馬」はどのシーンも美しいんだけど、なんと言っても波に少年と馬が飲まれていくところ。こんな救済あったらいいな。動物に誘われて新世界に行く話といえば、オシラ様*26とか、インドのワニの王様の話*27とかね。世界各国たくさんあると思う。童話によくある簡潔な物言いがむしろストーリーの取り返しのつかなさを増幅させて、大人にとっては超自然への畏怖を呼び起こしたりする。子供は神に近いという命題は日々随所で実感する。しかし良い映画だったな。友達に見てもらいたい。感想を言い合うのが大好きだからよろしく。奇しくも映画を見た1/13は監督の誕生日だった。
・赤い風船*28。同じ監督の短編映画。映像美!灰色の街に赤い風船。女の子の青い風船と出会うシーンがお気に入り。「白い馬」同様、死を連想させるラスト。「白い馬」よりは童話感が強い。死は死でも、幼い子供の儚さとか、赤ちゃんを見てるときの「この子はある日突然パッとどこかに消えちゃうんじゃないかな」と思わせる、あの儚さが近い。全ての風船映画の原点なんじゃないか。ナインハーフのあの風船シーンももしかしてこれのオマージュだったりするのかも。
・ドラキュラ*29。石岡瑛子が衣装担当と聞いて。血が苦手な人は休み休み見ないといけない。貧血になりながらも楽しく見た。衣装も俳優の顔も綺麗。可愛い狼も出てくる。ゲイリー・オールドマンはかっこいいな~。それにしても原作ドラキュラってこんな悲しい話だったのか。エンドロールでアニーレノックスの歌声にとどめを刺されて情緒がさらわれた。映画ってエンドロールを見るために2時間耐えてるところある。正統派ゴシックで、クリムトのゴルゴン三姉妹*30をなんとなく思い出していた。正直、ドラキュラ物は今まで避けていた。“お耽美”と悪趣味を混同したような創作が一人歩きしてたし、そういうのを見ると耽美を舐めるなと苛立つ。デヴィッド・ボウイとカトリーヌ・ドヌーブがやっていたほうのドラキュラ映画が良い例で、俳優の顔は耽美だったけど演出が悪趣味を極めていて全体としては最悪の出来だった。一方でこちらはちゃんと万人受けしそうな円満で安全な美に留まっている。耽美思想は全く感じられないけどそこが良い。美と商業のギリギリってこの辺だろうなと思う。監督が成功者と聞いて納得。傑作。ただし怖くて疲れる。
・Ribbon*31。前衛芸術。のんはすごい。綺麗でエネルギッシュで言いたいことがある。深堀骨さんが猛プッシュしてたのよくわかる。邦画のセリフ少ない感じ、退屈は退屈。
・ロスト・イン・トランスレーション*32。大好きな日本をこんなふうに描かれて拒否反応が出る人は多そう。私も若干。知らない東京ばかり映し出されて私の故郷はこんなのじゃないと言いたくなるような。でもこれが街中で見かける不良外国人観光客のリアルかもしれない。お寿司屋さんで卓に足を乗せたり繁華街で大声を出して走り回ったりする裏にはこういう理由がね。なるほどね、という。まあこのくらいの意地悪を言って気を済ませたあとでちゃんと考えると、重要な指摘をもらった映画。来たくもなかった異国でダラダラとモラトリアムに浸る2人は「花束みたいな~」の2人が付き合いだした動機とほぼ重なるわけで、本国に帰ればもちろん2人の間にも分かり合えなさが発生するのは目に見えている。普遍・不変にどこでも同じような始まりで男女関係はスタートするらしい。誰もが仲間を探している。登場人物の1人1人の行動にもっとこうすれば良かったが存在していて、渋谷と京都しか知らない白紙状態だからこそ、今後に期待ができるというものだ。つまり、むしろ対話可能性を感じるところにこの映画の良さがある。
---1月も15日が過ぎたあたりで毎日映画を見る生活に飽きてきた。集中力、2週間の命。
・「曲がれ!スプーン」*33。クリスマスのほのぼの映画。長澤まさみ可愛いな~。長澤まさみ大好き。上田誠も大好き。
・ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ*34。面白いけど何かが残るかと言われたらそうではなかった。スティング出てきた!スティング見れて満足。ただしポリスは1曲も流れない。レザボア・ドックスとかのファン層と被るんだろうな。“ガイリッチー_タランティーノ”で検索しかけてやめた。小難しい映画評論ブログとかがヒットしそうだったので*35。きっと映像の形式について細かく分析されてるんだろうな。好きだったけど、小物の犯罪は悲しくなる。
・バーバレラ*36。すごすぎ!すごいものを見た。全体に無駄なお色気シーンが多すぎるけど、主人公バーバレラの純真さのおかげで全く汚さがない。デュランデュランがこの映画からバンド名をつけていたのを初めて知った。色々な監督に影響を与えていそう。雰囲気は「フラッシュゴードン」「コナンザグレート」「デューン砂の惑星」などなどに通じるものを思い出す。被虐シーン1つとっても、鳥についばませたりオルガンの中に入れて演奏したりいちいち風流だし、美術がおしゃれでフレンチポップな感じ。皇帝の夢の中を漂うシーンとかは漫画的な綺麗さもあった。
女性の綺麗さ-優しさ/無防備な他人への信頼-無知・知性の欠如の結びつきに関して何か文学論のショートエッセイでも書けそうな風合いもある。“なぜ自分達に酷いことをした皇帝を助けるの?”と聞かれて、“An angel has no memory.”と答える天使の凄みについても。
いろんな人に見てほしいな~。浮遊しながら宇宙服をどんどん脱いでいくジェーンフォンダに無重力フォントが重なるオープニングシーンが本当に綺麗で、そこだけでも見る価値がある。
・明日のナージャ*37。
可愛くて懐かしい。リアルタイムで観てた4、5歳のときはストーリーを追う能力がなくちゃんと理解していなかったので、今回改めて見て色々刺激的だった。当時ナージャが1シーズンで終わったのがショックで、後釜のプリキュアはハマれなかった。
各話で色々な国の風俗や名所が紹介されてて楽しいし、調度品の数々が憧れをそそる。ナージャは明るくて正義感が強くてどこまでも主人公、加えて異常にモテる。一本気なナージャからは学ぶところが多い。若い女の子のこの感じ好きだな。
後半にかけてビターで大人びた話になっていく。特に話の随所で出てくる格差社会にヒヤッとする。ナージャに対抗する悪役ローズマリーも作品が違えば主人公になり得る肝のすわった人物で、場合によっては一国一城の主になれるかもしれない。彼女の起業家精神からも学ぶところが多い。
ナージャはノブレス・オブリージュを地で行く生まれながらの“良い貴族”。誰にでも分け隔てなく与え、疑うことをしない。ときに視聴者をイラつかせるほどの無防備さは、単に馬鹿なのではない。実は強い思想に裏打ちされている。ローズマリーとは同じ孤児院育ちのはずが、両者の性格形成に何が大きな隔たりをもたらしたのか?その性分の違いにこそ埋められない格差が存在し、思想が正反対の両者が最後まで仲直りしないのは聖戦のようですらある。
50話もあると、考えることが多い。
印象的だった回のいくつか。
第26話。ナージャと黒薔薇のデート回。グラナダのアルハンブラ宮殿を舞台に、水といい光といい、急に演出のクオリティが段違い。双子から想われても双子どちらも選ぶというのはできないのでナージャはこのあと壁に当たることになる。顔で好きになると同じ顔をした人が2人現れたら困るらしい。寝ても覚めても?
第29話。この回が一番好き。様々な美男美女が出てくる明日のナージャの中でも、カルメン&ホセカップルが好きなのでスペイン回は嬉しい。かと思いきや、えっ!?というホセのラスト。死が暗いものとは限らないという力強い回でもある。
第33話。ブローチを盗られるエジプト回。このあたりから心臓に悪い。ナージャの無防備さにもさすがに怒りを覚えてくる。イギリス人*38がエジプトで宝飾品を盗まれるというのは中々皮肉が効いている。
第38話。ナージャの貴族の座を奪おうとするローズマリー。ナージャが貴族である証拠の1つ、ナージャの母のドレスをビリビリに引き裂く。そして一言、「(ナージャのように)優しくて可愛くて誰からも好かれてるってだけじゃ幸せになれないのよ」
うわっ!と声が出た。すごいセリフだ。優しくて可愛くて誰からも好かれてる人なんてまず稀有なのにそれでもダメなんですか!?小公女セーラのラビニア*39よりもムカつくかもしれない。
第44話。雪と薔薇が入り混じるシーンがとても綺麗。
第50話。最後の最後、ナージャに好感を持っている美青年たちがナージャのために道を開けるところで泣いた。
以上見た映画類。もう私でさえここまで読んでいない。
挫折したもの:
セントエルモスファイアー。飽きちゃった。
イージー・ライダー。長い。
禁じられた遊び。暗い。しかも犬が死ぬ。
暴君になる方法。戦争絡みは辛い。
これから見たいもの:
ホットショット、続フレンズ、アンタッチャブル、恋はデジャ・ブ、WATARIDORI、ベルファスト、マダム・イン・ニューヨーク、セルピコ、黄色いロールスロイス、窓ぎわのトットちゃん、哀れなるものたち…映画無限。
2. 音楽
映画のことは金輪際忘れたい。一方で音楽は大好きでいつも心の助けになる。本当にありがとう、音楽。
毎日気まぐれな時間にピアノを弾いていた。ピアノの先生が死んでから、クラシックは最後に習ったシューベルト*40しか弾けなくて、何年も同じ曲を弾いている。まだたまに泣いたりする。弾きたい譜面はあれど、譜読みの能力が低くて新しいクラシックはなかなか手が出ない。ポップスは森田童子が簡単だったからぼくたちの失敗を弾いていた。まあまあ上手くなったと思う。
映画「危険な情事」の中で奥さんが弾いてたショパンの前奏曲4番*41が楽譜を見たら意外といけそうでちょっと弾いたりした。色々調べていたら、ジミーペイジがライブでカバーしている動画を発見。“泣きのギター”で実際泣いた。渋い。漫画サザエさんの中に、女の子がブロンソンの写真を抱いて「しびれるゥ」と言ってるコマがあるんだけどまさにあの気分だった。
聴くほうは相変わらず井上陽水で、今月は、移動電話、5月の別れ、ロングインタビュー、手引きのようなもの、そのあたり。あとはロックが多い。ロック大好き。世界は愛だぜ。
アルバムごと聴くというのを久しくやっていなかったのでこの機会にいくつか。
・Luba「Secrets and Sins」ナインハーフのおかげで知った。ナインハーフありがとう。
・ENIGMA「MCMXC a.D」邦題だと「サッドネス(永遠の謎)」。邦題、なんだそれ。
・小坂忠「ほうろう」しらけちまうぜを友達が教えてくれてアルバムごと聴いてみた。全部聞くと、いなせ思想の強さ(?)が強調されて良い。
・Meat Loaf「Bat Out of Hell」ちゃんと元気出る。真面目。
・KRAFTWERK「AUTOBAHN」かっこいいなこれは!ちょうどたった今の実存にハマる音楽を見つけたときの嬉しさ。
・井上陽水「バレリーナ」初めて聞いた。新しい感じ。地味だから今まで辿り着けなかったんだと思う。
・桑名正博「テキーラ・ムーン」良い曲ばっかり。上質な哀愁だ。声が滑らかで好き。
・第10回浜松国際ピアノコンクール本選の安並貴史、今田篤、ジャン・チャクムル。コロナ前最後の大会。全員本当に素晴らしくて洗われる。今年の秋に第12回大会が開催されるはずなのでぜひ行かないと。
・松任谷由美「LOVE WARS」1番好きなユーミンを聞かれたら答えてるアルバム。愛は常に戦いで、そこが愛の良いところだからね。
こうして並べてみると名盤ばかり。本当は同時代人にどうしようもなくハマる経験をしたい。時代の精神というか、雰囲気はあるから仕方ない。時代の中でたった1つが好きという選択はできない。
同時代人といえば大学の友達のニュータウンVが1stアルバム「ニュータウン宣言」をリリースした。たまらなかった。よく知っている人の困難と希望が詰まったアルバムのなんと良いことか。創作を完成させたという凄さ。ああ、しっかりしないと、とぼんやり思った。
ところでレコードだと背が薄く、閲覧性を高くするためには収納方法が限られてくるが、CDだと背が四角くあるので物色しやすい。それにCDのほうがライナーノーツの文量が多い気がする。解説や後書きを読むために文庫本を買うのと同じで、媒体としてはCDが一番好きだ。聴く媒体が違えば良いと思う音楽もかなり違う。人間はかなり媒体に左右されている。会社を休まないとこんなことにも気がつけないのかというため息もありつつ。
3. 授業
大学の授業は計5コマ受けた。立教大学と上智大学。
・大山顕先生の写真文化論。覚え書き。あまり整理せずに書いている。
~~クロードグラスという18世紀イギリスで流行した凸面鏡があり、旅先の美しい風景をこのグラスに映して見ていたらしい。「風景画のように」風景を見る目的のもの。正直意味がわからない、なぜ肉眼で見ない?と思ってしまうが、この行為に象徴される「我々人間は風景をどこかで見たようにして見たい」潜在的な願望/思考の癖がある。
ラスベガスという街は一本の道でできており、街の外側には常に砂漠がある。過酷な砂漠(死を連想させる)が煌びやかな街の背後に見え隠れするぞっとするような街である。ラスベガスはモールに似ている。
モールが一般化したのは2000年代で、建築家はモールを小馬鹿にしている。モールのファサードやエントランスは内装の延長のよう。モールの外観は巨大な看板が貼られた倉庫のようで中に街を作ろうという思想のもと作られている。街を内部に抱えて、その周辺環境に対して建築的なアプローチを取らない箱庭。ラスベガスでは、周りの砂漠を忘れようと意識的・無意識的に至る所に水槽や噴水が設置されている。ラスベガスに顕著なだけで我々をシミュラークル的な造園を行う性である。
70年代、ラスベガスは偽物に溢れた街で、研究対象ではないと言われていた。ヴェンチューリが初めてラスベガス研究に意味を見出した。ラスベガスの巨大看板は建築のファサードを道路沿いにまで引き剥がしたもの。視覚に訴えかける風景、ディスプレイ的な風景である。ファサードが遠のいて映像が町中で映し出されることは今後加速の一途だろう。~~
最後の授業は、毎日同じ時間になんでも良いので写真を撮るということについての講評。授業後、私も始めたので1ヶ月分溜まったらまとめようと思う。写真は我々の目がいかに何も見ていないかがわかる装置であり、考えるための道具・客観視するための道具であるという総括だった。
・桑原先生の芸術学では地図学と天皇の図像論。美学ではブルデューのディスタンクシオン。
色々、本当に色々思うところがあってまだ消化できていないので後日の追記を待つ。
~~文化的欲求は実は教育の産物であり、家庭環境に左右される部分が大きい。階級意識の強い社会の中では、芸術と芸術を見る才能の様式が作られ、日々の立ち振る舞いまで全てを巻き込んで自分達の階層を差別化/高尚化していったという話。排他的な構造や参入障壁の高さを指摘し排除への怒り、文化的な闘争を提唱。生活のあらゆるものに芸術を適用して生活のエリート化をする人々(階層の高い人々)は例えば労働者の手の写真を見ても完全な観察者であり、形式に注目する。一方で労働者階級の人々は同じ目線で見、全く対象化しない。
趣味はこれは良いとか悪いとか分類し、その趣味を持つ人のことも趣味を使えない人から分類する。印象的なのは「『眼』とは歴史の産物であり、それは教育によって再生産[獲得・継承]される」という部分など。~~
他の大学も行ってみたかったけどどの先生がどこでどういう授業をやっていて、みたいなのを調べる気力がなかった。
かつて習った先生たちに突撃したりもした。先月まで教授相手に新規営業をしていた経験が悲しくも活きてしまい、話したかった人とは全員会えた。意外とみんな私のことを覚えていてくれて嬉しかった。
「あのときはセクハラになるから言わなかったんですけど」っていう前置き、ろくな話が続いたことないよな。教授業って意外と欲に忠実というか。むしろ象牙の塔で当然と言うべきか。誰もが大山先生や桑原先生のような人格者ではないのでそれは良いのだが、私にとってのバイブル『砂糖菓子が壊れるとき』を思い出したので書いている。あれに出てきた天木教授って割と普遍的な教授職の姿かもな。とはいえ教授たちに会えてめちゃくちゃ嬉しいという定まらない感想。
挫折の記録。結論から言うと中トロラジオ*42のみ。
それぞれのポッドキャストにはリスナーとのコミュニケーションの蓄積があり、それをわかってこそなところがある。喋る人の価値観に興味がないと聞くに堪えない。今月も中トロラジオの他に色々聞いてみたが、ほとんどの場合「ちぇっ興味ねぇや」という顔をしていた。会話に参加したくなってどうもフラストレーションを感じるパターンもある。
中トロラジオを聴き始めたのは2022年だから、22年以前の文脈を知らないリスナーを排除しない中トロの2人の腕と、私がたまたま中トロの2人に興味を持てたという偶然が重なった産物ということで、むしろこっちを奇跡と思うことにした。
1月中に更新された中トロラジオは4本3本。
ケンタッキーの話で楽しそうにしていた。
新しい発見としては、ネット的であること。ネットから離れて生活していると少しでもネット的なものに敏感になり、1歩歩くごとに「あ、ネットだ!」とやるようになるもので、中トロラジオからもネットの匂いを敏感に感じ取るようになった。何がと言われると難しいけど語彙とか引用先とかノリとかかなあ。1年以上聴いてたのに気がつかなかった。
最新回が更新予定日を過ぎてもアップロードされなくてハラハラしてしまった。多忙な2人が趣味でやってるポッドキャストだし、いつかは終わってしまうことが確実で、それがついに…とか色々考えてしまった。私のSpotifyがおかしい虞もあると思って少しツイッターに戻ったり、フィードを更新してみたり。お行儀の良いファンが多いこともあって、中トロラジオが更新されていないことを誰も話題にしていないのが余計怖かった。
元気ならそれでよし。
ニコルソンベイカーの『中二階』を仰ぎながら注釈をつけるのにも飽きてきた。
5. 外出
用事の有無に関わらず1日に1度は外に出るようにしていた。というか出たい。先月までやっていた営業の仕事で唯一楽しかったのも常に移動していたことで、「外」とか「社会」とかが割と好きだ。あまり人と会うとまた昂揚して気が触れるので、極力1人でいた。本音は早く予定を詰め込みたい。来月から徐々にそうする。
1人だと行く当てもないのでコルティの三省堂だとか大蔵公園のプールなどをフラフラと。プールは良い。濡れるのだけが唯一理解できない面倒さだが、水の中のほうが息がしやすい。
1/5 授業。
1/7 親友と中国茶。仕事を頑張っていて顔が私の好みで、どこか変わっている親友。中国のどの地方のものなのか、名前もよくわからないとても美味しいものを食べた。今まで話したことがない話もできて良い年明けだった。
1/9 授業。
1/15 友達の家。初ピザーラだった!とても美味しかった。編集者の友達の本棚というのはいつ見ても話題作だらけですごいなと思う。過去を思い起こしてみても、数名の本棚全てそんな感じだった。話題というのは人為的なんだなと思う。日本の編集者同士でそういうプレイをしているとしか思えない。どの業界も文脈プレイだよね。
1/16 授業。
1/19 授業。
1/20 筆記試験。せっかくのES通過を無駄にしないようせめて漢字の対策をしたり。手応えがなくて泣きながら帰ってるところ雨まで降ってきて最悪だった。1月中で唯一暗かった日。午前中に終わったのにそのあと何もできなくて天井を見て過ごした。
1/21 友達と美術館。本当は誘わないつもりだったけど、どうしても我慢できなくて連絡しちゃったやつ。一日中笑っていて本当に楽しかった。桑原先生の授業中に思い切ってラインした甲斐があった。六本木ミッドタウンの庭園内にある美術館で、私の記憶の中ではその場所はレストランだったような気がしたのだが、はて?と不思議に思った。でもあれも今となっては20年前。なんという店だったかわからない。
展覧会の帰りにニュータウンVデビューのお祝いを買って、それも楽しかった。贈り物を選ぶときにその人との関係性が客観視されたりする。つまり、プレゼント(=ある程度の押し付け行為)をあの人なら許してくれそうだという信頼感。
1/23 祖母の家。祖母の友達はもう堤野さんしか生きていなくて、堤野さんは定期的に歴史小説を祖母に送ってくる。今回も堤野さんがくれたチャンバラ小説が増殖していた。「面白くないけど仕方なく読んでたら詳しくなっちゃった」とのこと。プルーストと西行が大好きな少女趣味の祖母にチャンバラ小説は無茶だ。他にも、柴田杏里さんのギターの話とか、セイロンのコテラワラ大使*43と付き合ってた頃の話とかを聞いた。こちらからも最新の噂話をお届け。沈丁花が好きだと言ったら哀しい匂いがするから嫌だと却下された。この時期は水仙*44に限ると言う。去年の秋に来たときも、私が花の中で芙蓉が一番好きだと言ったら肉感的すぎると却下された。同じ頃ならリンドウが良いと言っていた。
あと面識のない親族がネット上では自殺したことになっていたのが気になっていたので、良い機会に聞いてみた。そんなことする人じゃないわよと大笑いしていた。普通に心不全らしい。自分にも遺伝上、そういうことが降りかかるんじゃないかという漠然とした恐れが少しほどけた。芥川龍之介になり損ねた。でもどの記事を読んでも自殺ということになっているのが悩ましい。訂正しようにも、口伝よりもマスコミが正しい出典とされてしまうのは目に見えているので困った。これは意外と大きな問題ではないか? 『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』*45って改めてすごい小説だったんだな。
1/25 友達とあんみつ。美味しかった。会ってるあいだに母から火事の連絡。私の家のすぐ近くが火事になっていた。緊急性はなかったので帰らずいたものの、気がそぞろで友達に申し訳なかった。連絡があってから5時間ほどして帰宅したときもまだ消火活動中だった。火事は火というより煙だと知った。外壁以外全て黒く焦げていた。
1/27 病院。病院嫌い!
1/29 別の病院。病院嫌い!帰りにコートを買いに行った。「これ探してるんですけど」「こちらに」「あ、買います」くらいのスピード感でお店に10分もいなかった。
1/30 友達と赤坂離宮。そのほか四谷周辺。友達というか会社の先輩。関西支社の人で、有休で東京に来るついでに誘ってくれた。会社の人なのに休日に会ってくれるんですか!?という感動。自分を見てくれている人が1人いるだけで救われる。
以上。今月の私は、社会的には仕事をしない穀潰しなのだが、こうやって書き起こしてみると意外と社会側に関わってくれる人が多くて幸福だ。シソンヌの言うところの明るい引きこもり*46だ。
それぞれの友達から学ぶことが多く、関係性も多様。相手にとって私が重要人物でなくても、私にとって重要人物であるパターンをかつては容認できないでいたが、最近はそういう関係にも心地よさがあることを理解できるようになったのがとても嬉しい。
こんなに用事が少なかった月は久しぶりだった。本当は他にも連絡したい人がたくさんいて、それぞれ一緒に行きたい場所を無限に思いついたが、ぐっと耐えるとき。早く働きたい。飽きた。
3月にあるチャクムルのコンサートチケットを買った。数年前トルコの香りがするようなカラッとしたピアノに魅了されて以来ずっと忘れられなくて、でもなかなか予定が合わなくて、ついに!97年生まれの若いピアニスト。3月というのはとても遠く感じ、その日に私がいるイメージが掴めないが、それでも。
6. 本
本はよっぽどのことがないと読まない。本は暇つぶしの選択肢に上がってこないくらいには信頼していて、読むときは真剣白刃取りくらい真摯に構えてしまう。
・『ファミレス行こ。 上』絵が上手い。
・芥川賞直木賞の発表があった。芥川賞そのものよりもニコニコ生放送の栗原裕一郎さんたちの解説が好き。社会人になってから時間的に見られなかったので、今回は久しぶりに見られて嬉しい。ノミネートされる作家も90年代生まれが増えてきた。たまらないね。文壇…分断…。発表後すぐ、コルティの三省堂に買いに行ったものの、直後すぎてあまり棚もできておらず、気分が変わってしまったので九段理江改め筒井康隆の『大いなる助走』を買ってきた。栗原さんが話題にしてたので。面白くて仕方がない。筒井康隆は確かに巨人だ。これは自分にとって印象深い本になるということが読み始めてすぐにわかった。まだ半分のところなのでこの後どうなるか気になっている。
・毎期楽しみしている「白水社の本棚 2024冬」が届いた!白水社が出している季刊冊子で、新刊案内を骨格に豪華著作家陣のコラムが載っている冊子。今期もとても面白い。多くの人が購読するべきだ。
・Max Kruse『Das Silberne Einhorn』ドイツ語の児童文学を訳し始めた。表紙が可愛いからとドイツに行った人がお土産で買ってきてくれたやつ。確かに表紙は可愛いし、なんとなく名作の予感を嗅ぎ取りながらも、ドイツ語を読む気力がなく長年置かれたままになっていた。実際、久しぶりの読解はめちゃくちゃ時間がかかる。1日1頁読めれば頑張ったほう。話としては、王様が王女の1歳の誕生日パーティーに、1人だけ妖精を招き忘れてしまって、怒った妖精は王様の国が衰退するように呪いをかける。しかし王様の必死の懇願に、不便に思った妖精は銀のユニコーンを見つけてきたら呪いを軽くしてあげると言って、大河ファンタジーの始まり!ということのようだ。まだそこまでしか読めていないから続きが気になっている。引き続きゆっくり読んでいこうと思う。良い話が始まる匂いがする。
7. できなくなったこと
急激に性格が変わっている感覚がある。
・バラエティ番組。テレビが少しでも大きい音だと苦痛で仕方なかった。そういうわけで好きなテレビ番組を今月は見られなかった。
・ショックな話題になると会話が続けられない。文字上ならまだ饒舌でいられるのだが、発音となって出てこない。例えば、嫌なニュース、私の以前の部署の話やこれから何の仕事をするかという話、私の顔の話、猫の話、病気の話など。相手が悪意で話しているわけではなくても、頭に鉛が詰まったような感覚が急に来る。やめてくださいと言うわけにもいかずこれが一番困った。私からし始めた話でない限り、私の意図とは関係なく、能力的にできない。考えていることがあっても話せなくなるという状態は、見聞きしたことはあっても実体験としてやってくるまで理解が及んでいなかった。以前から知っている人はよくわかってくれている通り、私は話すことが大好きなので、口が動かないというのはなかなかストレスが溜まる。これで1つ面白い発見があった。会話<文章を書く<歌を歌う の順にハードルが高い。つまり、話せなくなったときは文字でのアウトプットが迂回ルートとして用意されている。家で文章すら書けないときは歌なら歌える。それもダメならピアノなら弾ける。そうやって第2、第3の道を通っているうちに、会話の道もまた自然に直っていた。自己流の荒療治を色々試すうち、言語活動よりも先に人間があったことを思い出した。言語があまりにも便利で、かねてより言語ヘビーユーザーだったため気がつかなかった。言語ヘビーユーザーならまだしも、偏狭な言語至上主義に片足を入れかけていたところだった。言語至上主義から人間中心主義までの黒いルートがサッとつながって見えた。
・おしゃれ。何を着るかに対して執着が減り穏やかになった。しかし実感としては不本意だ。理由は不明だが外出するとき何を着れば良いのか、前に比べてわからなくなった。記憶の中の外出準備をマニュアルのように追うことで外に出られる格好にしている。理論的にやっているだけで感覚はほとんど伴わない。服や靴の組み合わせを考えるのが楽しかった前の記憶が信じられない。自分が変な格好をしているのかしていないのかよくわからない。だから今月会ってくれた人で、もし変な格好の人間と街を歩いてくれた人があれば、とても申し訳ない。
8. 文章
思考が飛びがちで内部の統制が取れていない。私自身1人の連続した人間だということを丁寧に思い出すための努力の途上にいる。自己矛盾をそのままのサイズで可視化するのに、書くことが役立つ。
固有名詞をたくさん入れるのは書いてる本人は楽しいけど、読む人にとっては全く面白くないと思う。会話は共有項を増やしていくときに楽しみがあるのに、こういうのは本当に失礼で浅はかな行為だ。全く美しくない。花束みたいな~に出てくる固有名詞は知らないものも多くて、普通にその面での白けもあった。
そういえばM-1の真空ジェシカもわからない単語だらけで唖然としてしまった。あれはサブカルじゃなくてネットだったけど、こんなにネットをテレビで放送して良いんだ、というかみんなこれですんなり笑えるほどネットに身を置いてるんだと思って驚いてしまった。サブカルの括りに入れてる人がいたのも別の意味で驚いた。アングラはアングラでいたほうが輝くんじゃないか?真空ジェシカのファンは真空ジェシカがM-1で仮に評価されたとして喜ぶべきなのか?とか色々考えるところはあったけど、自分が楽しみ方をわかっている面白いと感じるものが評価されれば反射的に嬉しい、というシンプルな構造があって、好きなものが文化のどの立ち位置にいるべきかとかは第二層なんだと思う。でもこの〇〇するべきが強すぎて私は各方面で苦しんでるから、そういうのが少ないほうが人間として健全だと思う。そもそもテレビが明るいよい子のものだったのは相当過去の話で、映して良いとか悪いとかそういうのはもう無い。世間の流れは全て仕方ないし、私がオールドファッションなのも仕方ないし、両者のギャップも当然仕方ない。
独りはかなり嫌いだし、社会にいたいほうだから、当然山に籠るとかはできない。これ以上の孤独はちょっと耐えられない。
新年ちょっとだけ見てたツイッターでは、多くの友人たちが、お正月特番が無に帰したテレビマンに想いを馳せていた。それを見て、また大事な友人をツイッターに取られたなと思った。「テレビマンが辛い」これは真実かもしれない。でもこれは少なくとも地震から瞬発的・同時多発的に連想される表層の感情ではない。まず地震からお正月番組を連想した誰か1人がいて、その人の発信を見た誰かが「確かに!」と思って再度発信、またそれを見た人が・・・という感情の伝播だと思う。SNSでは感情そのものが流行する。それを発信するのは結構だが、その感情は元々誰のものだったのかに自覚的でないと、すぐ自分を取られていくと思う。他人に中途半端に身を寄せないで、ある程度断定すること。ときに排他的になったとしても、立場を取っていくことが大事だと思う。
でもこれも、違和感を覚えている私が悪いと思う。流行りに乗れる節操のなさとかミーハーさは、生命維持に本当に必要で、健全だ。実際、個人に固有の個人由来のものなんて、本当にあるのかも怪しい。もっといえば個人という存在すら怪しい。
精神分裂の主な原因は高潔と自意識だけど、そういう性格だからどうしようもない。バランスを保てた日は幸運で、保てなかった日は不運だったねというだけ。
『大いなる助走』で良いセリフがあった。「現代に生きていながら現代感覚を持たないという、信じられないような精神障害者がいて、そういう人の書くものが時流に乗らないのはあたり前です」同人誌の会合に出席した『群盲』の編集者牛膝さんのセリフ。
「マスコミ志望の大多数が『全裸監督』を見てるから一応見ておくか」といったことを過去の数年間してきた。そのせいで、自然状態の自分が何を選び取るか忘れてしまった。実際そんなものがないとしても。それにしても「友達が話していた」とか「おすすめされた」とかの動機が圧倒的に多い。自分一人でどうにかして直接辿り着くことはできないんだろうか?
9. 来月への展望
[劇的で、ハッピーななにか]といえば妊娠が代表的なので、妊娠などをしたいが現実的ではない。こう書いてみると何やら楽しそうな毎日であり、現実がそんなに悪くないはずなのにこの暗い気持ちは何か?*47癖としか形容できない。
恐ろしい来月がもうすぐそばに来ている。毎夜寝るときこのまま目が覚めなければいいのにと祈りつつ寝て、毎朝なぜか起きてしまった成れの果てが今日なのに、「来週」とか「来月」、「来年」とかが来るなんてことが信じられない。単位が大きくなればなるほど未知の度合いと比例して恐怖が増す。しかしより良い生活のためには、当事者意識が芽生えないなりに、未来のことを考えないといけない…ジレンマだ。まずは今月よりは少し多めに社会に開かれることを考えようと思う。
馬が見たい。具体的な場所は決まっていないが、友達と約束だけした。ベッドを買いたい。1人では行けないので誰かついてきてくれないと困る。1ヶ月でやれることは意外に少ないが、確実に何かの変化が生じるくらいの時間ではある。
「去年今年貫く棒の如きもの」という高浜虚子の句が良い励ましになる。